事故〜社会復帰仕事高次脳機能障害

事故〜社会復帰①

事故〜社会復帰②
事故〜社会復帰③

新卒入社

大学3年生の終盤、就職活動がスタートした。
私の場合、学童とドラッグストアでのアルバイトの経験から、
サービスを提供して終わりではなく、
1人の相手と長く付き合える細く長く続くような仕事がしたかった。
私が始めに思い付いたのは、 薬、車、家、の3つのサービスだった。

就活している合間に卒論を書いたり、お爺ちゃんとの別れや甥っ子との別れを経験し、
思えばその頃から波瀾万丈人生が始まっていたのかもしれない。

私は面接がめっぽう苦手で、これまでに10社程度からお祈りメールをくらっていた。
そんな中、ある沖縄の不動産会社の1次面接を受けて合格をいただいた。
すごく嬉しかった。
筆記試験も合格し、最終面接へと進んだ。
最終面接では、会社の会長と社長 対 私という2対1の面接で、心臓を吐きそうなくらい緊張した。
緊張しすぎて何を話したのか記憶は曖昧なくせに、1つだけ覚えていることがある。
それは、最終面接中に私が泣き出してしまったことだ。

なぜ泣いてしまったのか。
それはきっと、うまく自分の想いを言語化できない悔しさと
これまでに受けたお祈りメールのトラウマと、お偉いさん2人に緊張していたのと、
早くこの状況を打破したいと言う変な焦りで感情がぐっちゃぐちゃだったと思う。

オワッタ・・・。

面接を終えて帰宅する車中では、終わった安堵感と反省で頭の中は低く鈍いガーンと音がなっていた。

しかし!!!
採用担当の方から後日いただいた電話で、最終面接合格、採用とのお返事をいただいた。
まさか、なにかの間違いではないかと疑いつつ、嬉しくて嬉しくて
愛車を運転ながら聞いていたスピッツの曲を鼻歌していた。単純な人間である。

そんなこんなで無事沖縄の不動産会社から内定をいただくことができた。

私を含め、内定者は10人。みんな内定者の早期出社や研修などを乗り越え、
無事に入社して同期となった。
それまでそんなに意識したことはなかったものの、同期って同じ門をくぐり抜けて
新たな扉を開いた仲間でありライバルであり相談相手であり心の支えとなる大きな存在だ。

交通事故に遭う

入社して3ヶ月にもならない2017年6月28日。
道路横断中に車に撥ねられ、救急病院に搬送された。

私が横断歩道ではない道を渡っていたみたいだし、夜中だったみたいだから仕方ない。

奇しくも事故った時は同期と一緒に居て、入社した不動産会社が新築して
管理しているマンションのすぐ前の道路。 
…運命を感じる〜。

「みたい」と他人事のように言ったのは、事故から約2〜3ヶ月間は記憶がほとんどない。
事故現場や日時、原因などは警察から聞いたので、間違いはないはず。

約2週間何度か心停止をしながらも家族と医療スタッフさんの懸命な看病をうけながら
何とか落ち着いて一般病棟に移動できた日。
母と旦那(当時はまだ結婚していない)が事故現場に行きマブイグミ
(沖縄で「魂込め」と言われる慣習)をしてくれた日。
帰りたいと泣き喚いて入院している病棟のスタッフと家族にご迷惑をお掛けした日。
全然夜寝なくて病棟のナースステーションにいた日。
気管切開の踏ん切りが付かず母を悩ましてしまった日。
鼻のチューブをしょっちゅう抜いてナースさん達を何度も困らせた日。
対策として両手に付けさせられたミトンを噛みちぎろうとした日。
ヘアードネーションをしたくてずっと伸ばしていた髪を洗うのが大変だから
母の友達の美容師さんに病棟で散髪された日。
救急の医者が転院時に一緒に救急車に乗って同行してくれた日。

今となってはどれも笑い話になっているけど、
この期間はとっても落ち着かない日々を過ごしていたであろう家族。

私には記憶がほとんどなくふんわりとしてしか覚えていないのがとても残念。
当時はどこか夢を見ている気分だった。
事故当時や入院初期の頃の話は、自分の話だと信じることができず、
他人事にしか捉えられないが、
後遺症が残ったことで今は現実を突きつけられている。

後遺症は、身体障害(主に左半身麻痺・体幹失調)と高次脳機能障害である。

退院

2017年8月2日、急性期病院から転院して、看護師である母が勤める回復期病院へ転院。

転院した始めの頃は相変わらず夢見心地であまり記憶はないが、
沖縄ではウンケーと呼ばれているお盆の2017年9月3日に異変があったそうだ。

ウンケーだった事もあり、祖先が乗り移ったかと思うくらい
いきなり私が昔の記憶やエピソードをばーっと話しだしたそうな。(旦那曰く)

多分そのくらいの頃からの記憶は割としっかりしていると思っている。

会社の同期が何度もお見舞いに来てきてくれたこと、
同じ部署の方々勢揃いでお見舞いに来てくれたこと、
3か月もいないのに毎月定期的にお見舞いに来てくれて、
一人で千羽鶴を折って渡してくれた直属の上司。
それ以前に搬送された翌日に病院にお見舞いにきてくれた会長と社長。
一人で迷いながらもお見舞いに来てくれた経理の上司。
会社の皆様が書いてくれた励ましの寄せ書きの色紙。
ほんとに良い会社だなーと感じることができた瞬間でした。

その他大学の友達が内地から飛行機に乗ってゼミ担任の先生とお見舞いに来てくれたこと、
高校の友達が集まってお見舞いに来てくれたこと、
内地からお土産を持ってお見舞いに来てくれた友達、
病院に生花を置くのが難しいだろうと気遣ってハーバリウムを持ってきてくれた友達、
小学生の時から仲良くしてくれている親友が漫画を持ってお見舞いに来てくれたこと、
毎週デザートを持ってお見舞いに来てくれた叔父さん、
私だけではなく、お見舞いに来ている旦那へもご飯を差し入れてくれた兄達、
私の夕食後に間に合わせて急いで仕事を片付けて来てくれていた母、
どんなに忙しくても毎日朝と夜(消灯時間ギリギリ)の1日2回
少しだけでもと逢いに来てくれた旦那。

リハビリも毎日楽しく担当の言語聴覚士・理学療法士・作業療法士さんは
みんな良い方で成長させてくれて、できるようになったことは数えられず、
生きる希望を持たせてくれました。感謝!

振り返れば、入院生活幸せだったな〜。
こんなに周りに支えられて暮らしていた日々は尊い日々で
命を与えられていたな〜ありがたいな〜と感じる。

そんなリハビリ病院も2018年2月2日退院。
転院時はほとんど寝たきりだったけど、退院時は
4輪付歩行車(‘ボルト’という名前を付けた)で
自分の足で歩いて帰れるほどに回復させてくれたかけがえのない病院。

(写真は、とろみ食から刻み食へ移行期の病院食。
何を食べているかわからず、「餅と草(野菜)」と読んでいた。)

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To Be Continued…
 

コメント

  1. とある人 より:

    奇跡が繋いだ命ですね。応援してます

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