挨拶脊髄小脳変性症

お久しぶりの更新になります。
申し訳ございません。

今回は、今まであまり触れてきませんでしたが、
の父について記したいと思います。

父の紹介

と同じく遺伝性の脊髄小脳変性症
患っております。

父は5人兄弟の真ん中で、
次男叔父さんと父だけが
この脊髄小脳変性症の遺伝を受けており、
次男叔父さんは、今から約20年前に
心筋梗塞(死因の記憶は曖昧)で既に
他界しています。

今から約15年ほど前に仕事をリタイアし、
車好きでしたが、運転することもやめています。

仕事はずっとスーパーの鮮魚コーナーで
働いていて、私が幼いときは
たまに一緒に早起きしてセリに行ったり
魚を保存している巨大な冷凍庫に入って
遊んだりしていました。

私の子育ては父がしてくれていました

には、7歳上の兄が2人(双子)
居ますが、看護師である母は
兄たちの育児に手を焼くことが多いため、
末っ子であるの面倒はほぼ父が見てくれていました。

そのため、幼い頃のはパパっこでした。

家の外でも中でもいつも父にくっつき、
父の膝の上が定位置でした。

父は、私を喜ばせようと
庭に穴を掘ってセメントで固めて池を作り
金魚を飼ってくれたり、畑にある
大きなガジュマルの木に紐と椅子を
ぶら下げてブランコを作ってくれたり、
ホームセンターで木材を買ってきたかと思えば
一緒にノコギリで木を切ったり
釘をうったり、ペンキを塗ったりして
庭でBBQができるようにウッドデッキを
作ってくれたり毎日楽しませてくれました。

忘れられない思い出

が小学5、6年生の時のクリスマスの日。
まだサンタさんの存在を信じていたため
サンタさんにおなかいっぱいイチゴを
食べたいとお願いしていました🍓

すると、朝起きると机の上に
苺の苗が置かれていました。

「この苗を育てられたら、
お腹いっぱいイチゴが食べられるよ」
というような内容の手紙つきでした。

でもその手紙は明らかに父の字でした。

プレゼントをくれたのは、
サンタさんではなく父だと勘づきながらも
庭にプランターを置いて苺の苗を育て始めました。

苺は日々順調に大きく育ち、
食べ頃に実ったため、翌日収穫して
ミルクをつけて食べようと思って
ワクワクして夜眠った日。

次の日朝起きて苺を見ると
実っていた苺は鳥に食べられ、
ヘタだけが残っていました。

私はミルクも買って楽しみに
していただけにショックが大きく、
大泣きしました。

サンタさんの正体を知ってしまったこと、
頑張って育てた苺が、収穫前に
鳥に食べられてしまったこと。
私のほろ苦い思い出です。

だけど今考えると、あの手紙の汚い字は
私を喜ばせるために、
症状が進行している手を震わせながら
懸命に書いてくれたんだろうな。

私が自分で育てた苺を食べて喜ぶ姿を
想像しながら、プレゼントを準備し、
一緒に育ててくれたんだろうな。

だからこそ、鳥に食べられて
誰よりもショックだっただろうな。

のほろ苦いクリスマスの思い出は、
同時に父の悔しい思い出にも
なっていると思います。

もう真相の確かめようがないけど。

私の反抗期

車の運転ができなくなってからは、
よく歩く人でした。

少しでも症状を遅らせるためか
毎日毎日ウォーキングしていました。

しかし、長く歩くことが難しくなり
ほとんど外に出歩かず家の中に引きこもり、

は反抗期になり、
ずっと家にいる父に対して
常にイライラし父と距離を置き
一言も会話しない日々が続きました。

そんな日々が続き、私は大学生となり
実家を出て一人暮らしを始めると
さらに父と会話する機会がなくなり、
父は父で症状の進行に伴い
呂律がうまく回らず、
話しにくそうにしていました。

旦那は私の父の病気や
症状を理解して、できるだけ私と父が
会う機会を作り、会話するように仕向けてくれました。

が事故ったときは、
車椅子で病院に来てくれたり、
代わりに怒ってくれたりしていました。

闘病

の結婚披露宴には、寝たきりの状態でしたが、
車椅子で来てくれて、父が体調悪くなった時
すぐ横になれるように、別室に和室を
押さえていましたが、父は1度もそこに
行くことはなく、ずっと私を見守ってくれていました。

本当は、座りっぱなしの姿勢は
キツかっただろうに。

娘がよく歩き回りよく喋るようになると、
娘は実家に行く度に真っ先に父がいる
ベッドの方へ行き、タッチ✋!!と
大きな声で起こしては、
父の痩せ細った体をバシバシ叩いたり、
父のパンを奪ったりしていましたが、
父は怒ることなくただにこやかに見つめていました。

体調がキツく、寝ておきたい日も
あっただろうけど、娘が来ると
目を覚して相手してくれていました。

父が病院受診の日は、
旦那が抱っこして駐車場まで運び、
介護タクシーに乗せてくれていました。

父の他界

長い間闘病していた父は
2024年8月末頃に永眠いたしました。

最期は苦しまず、眠るようにスッと
息を引き取りました。

長い間お疲れ様でした。
ずっと病気と闘ってくれててありがとう。

どうか天国では好きな車を運転して
ビールを飲んで、寿司とラーメンを食べて、
ジャーマンケーキとアイスを食べてね。

生前、父と関わってくださった方々、御香典をくださった方々、全て感謝しております。

父がお世話になりました。ありがとうございました。

そして、母にも感謝。

父が仕事をリタイアしてから
ずっと1人で働いて稼ぎ、
私を大学まで出してくれました。

私が高校生の頃は、
毎日弁当を作って持たせてくれた
だけではなく、部活動もさせてくれたり、
塾に通わせてくれたりしていました。

母は、看護師で病棟課長をしており
激務の中、毎日私の食事の準備と
父の介護と家事をこなしていました。

母もお疲れ様でした。

私は父にも母にも
親孝行らしいことできず、

事故って危うく親よりも先に
旅立って親不孝をするところでした。

だから、できるだけ長く元気に
生き続けて、親不孝なことを
しないように生活することが
今に私にできる親孝行だと信じて
父の分も元気に生き続けます!

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